短編集1

1.荘厳なる叙事詩の一節




「彼は言った。
 全てを滅ぼし全てを台無しにしても。
 大切な場所へ戻るための、これは始まりなのだと。
 そして彼は行った。
 終わりなき、旅路へと」




眠たくなるような陽気の午後の教室。
そう古くもない叙事詩の一節を聞かされ、まどろむ人間が多いのも仕方ない。…と思う。
少なくとも、私は眠くはならないけれど。でも眠ってしまいそうな陽気であることは確か。これがあと20分も続けば、私も危うい。
「はーいはい。皆、僕の授業が眠たいのは分かるけど、これも世界史の一節何だからね」
努めて陽気に云う先生。彼のこの調子ではまだ叙事詩の件の話は続くのだろうか。 「『ユグド英雄譚』…これは何年前に出版された詩集の叙事詩だ?えーと、テーゼ?」
私だ。
「10…いえ14年前です」
「はい正解。いいかい?あんまりテストには出ないけど一応説明するよ」
教科書通りに答えを返せば、先生は今日の授業が始まってから初めて黒板にチョークを押しつけて書き始めた。
そのまますらすらと淀みなく声が響く。流石にチョークの音で殆どの生徒は目が覚めたようだった。隣でぼうっと起きていたピアノッテもノートを取り始めている。
「英雄譚、と呼ばれてはいるけれど、これは出版されて更に叙事詩として語り部が語り始めてからのことなんだよ。ユグド、という名もはじめから在った訳じゃない。詩集自体のタイトルは『無為の作』と題して在ったらしいからね」
無為…何でもない、ただのもの。そんなタイトルで付けられた作品が、まさか5年や10年でこうも広まると、書きしるした本人は思ったのだろうか。ふと私はそんなことを思う。
その間にも先生の言葉は吐き続けられる。私はノートを取ることも忘れて、話をぼんやりと聞いていた。
すると一人の生徒が不意に手を上げて発言する。
「せんせー、なんでじゃあユグド…だっけ?英雄譚って呼ばれるようになったんですか?」
その発言は他にも思ってる人が多かったらしく、クラスメイト達の顔に眠気は既に見えない。
その質問に、先生は勿体ぶってチョークで一文を書き終えると、くるりとこちらを向いて言った。
「それはね、詩の終わりの一節から来ているんだよ」
「一節?」
生徒が鸚鵡返しに言葉を吐く。
「そう。一節。僕はそれをとても興味深く思っているよ」
一呼吸置いて、先生は書きしるした黒板の文字を叩きながら言った。
「『全ての源 ユグドの泉は毒であり希望になり得るといい』」
教室がざわめく。…なり得ると、いい?
疑問に思っていれば、他も同じのようで。先生は笑いながら、質問しそうなクラスメイト達に向かって言葉を投げかけた。
「不思議じゃない?普通、終わった話…普通の神話や英雄譚は終わった話だよね。…そういうものの話の末尾には、『だった』がつく。過去形だね」
確かにそうだ。終わった話、全てが終わって、これはこうだった、とまとめあげるには過去形しかない。でも。
「この話は過去形など一つもない。そうだね、さっき読み上げた一節のように客観的な部分は過去形のことがあるけれど、思いのような部分は一度も過去形が使われていないんだ」
またもざわめく教室。どうして、何で、まさか。なんて声ばかりが聞こえてくる。そしてそれにピリオドを打つように、先生は笑ってまた黒板の一文の辺りを叩いた。
「僕はこう解釈しているんだ。―――この物語はまだ終わっていないんだと。そして“ユグドの泉”と称された何かが、英雄に未だ力を与え続けている、とね」
その言葉が吐かれ、一呼吸置いた瞬間。教室中に午前の授業を終える鐘の音が鳴り響いた。
「おっと、じゃあ今日はここまで。さっきも言ったけどテストには出ないところだから、適当に気を抜いて次までに予習だけしてきてね。それじゃ」
言いたいことだけ言って、先生は出て行った。
それでも教室中は先ほどの話で持ちきりで、未だに世界史の教科書を広げては推論や推測で英雄譚を訝しんでいる。クラス中先生の話術と謎にはめられたようだった。
それでも私はさっさと教科書を閉じて鞄に仕舞い、その代わり鞄から昼食の弁当を出して立ち上がる。少しだけ隣の席を見れば、彼は鞄を持って外へ行くようだった。いつものように特別棟の彼に会いに行くのだろう。今日はどの授業にも出ていなかったようだし。
彼の背を追うように教室を出る。きっと今日は屋上が気持ちいいだろう。もしかすると誰かいるかもしれないけれど、知り合いならそれはそれで良いと思う。




階段を上りながら、ふと先ほどの授業を思い出す。
クラス中を騒然とさせた、小さな小説の英雄譚。
語り継がれるほどの小さな嵐を巻き起こした御伽噺。
『なり得るといい』なんて、小さな願いを掛けたモノ。
でもそれが事実誰かの御伽噺で、誰かが命を掛けて為そうとする何かがあって。
それが途方もない願いで、叶えようもないものなのだとしたら。
私も祈りたいと思う。
どうか、それが希望であるように。
どうせ英雄譚なら、最後は定説通りの終わりがいい。
私でもそんなベタなものを好むのだから。




End




2.真白き地図に記す、最初の名




この世界はまだ真白。
全てはまだ始まる前。
そして終わった後。
循環の外側はない。まだ。
けれど始まるんだろう、きっと。
誰も知らない、物語が。




「この辺りがいいかな」
誰も入ってこない孤島。広すぎる孤島は荒れ放題のまま、誰にもどの国にも手を入れられずそのままココにある。
誰かが用いれば天然の要塞にもなり得たここは、その労力を用いるのが無駄という理由で打ち捨てられてきた。その場所に青年はいた。
そして誰もいないはずの背に声をかける。
「さて、じゃあやろうかな。君も手伝ってくれるだろう?ローリエ」
呼びかけた青年はいない。はずなのに、彼はそこに彼がいるようにして振り向いた。
刹那、その場にはまるで瞬間移動でもしたように1人の青年が現れる。背格好は声をかけた方の青年と同じか、微かに小さい位。赤紫の髪が印象的な青年だった。
ローリエ、と呼ばれた赤紫色の髪をした青年は、面倒そうに腕を組んで退屈そうに青年に目を向ける。
「呼ばれてここまで来てみれば、こんなところで何をする気だ、ガルディメット」
「…学校を作ろうと思ってね」
「学校?は、何を考えてる?」
ローリエと呼ばれた青年にはその答えが心底不思議でしかたなかったのか、退屈そうな眼を微かに光らせて青年を見た。
「学校はいいと思うなぁ、魔法使いだけの学校だよ。黒魔術師、錬金術師、誰でもいいんだ。この島全てを使って、作ってみようかと思ってね」
「……何を、考えている?」
もう一度、重いものを吐き出すようにローリエは言った。青年、ガルディメットと呼ばれた彼はサングラスの中の見えない瞳を輝かせて笑う。
「真っ白なキャンバスと変わりないこの場所に学校を作るんだよ。…全てが動き出すんだ。その頃にはね」
楽しそうに言うその言葉に、深い真実が含まれていることにローリエは気付いただろうか。
「この規模なら…そうだな、ざっと下から上まで1000人は超えるな。2000と言うところか?そんなに魔法使いが集まれば、事件の10や20、普通に起こり得るだろうよ」
ローリエは島全体を見てからそう言った。その答えにガルディメットも嬉しそうに答える。
「それ位だね。でも人数じゃないんだよ、そして全て見えているんだ」
「…貴様お得意の未来予知か」
青年は未来予知を得意とする、むしろ否応なく見えてしまうタイプの魔法使いだった。どこに居ても何をしていても見えるものは見える。人を見てもモノを見ても。
だからこそ、青年はいつもサングラスをして、世界と世界の境界を曖昧にし続けてきた。それでも青年はこの未来を見た。学校を作ろうと思った理由の、未来を。
「きっと賑やかになる。…その頃に、俺の隣に君はいてくれないようだしね」
「……確定のような言い方だな」
未来予知の未来は覆せると、他でもないガルディメットは知っているはずなのに。
「俺が確定にするからさ」
嗤う。まるでローリエが傍にいなくていいとでも言うように。
「そう、か」
「君はもっと大切なものを見つけているはずだからね。そろそろ惰性で俺に付き合ってくれなくてもいいよ、ってこと」
さらりとガルディメットは言った。目を丸くしているローリエなど気にも留めていないように。
「俺ももうひとつ、良いモノを見つけるみたいだからいいんだ」
楽しげに、言う。まるでこの未来になんの不安もないと言うように。いや実際ないのかもしれない。彼は彼自身が見た未来を、確定させるために動いているのだから。1秒先の未来を見ながら動くのは、とても容易いはずだ。
そしてもうひとつ。
「ローリエ」
「何だ」
「基礎が、学校の基礎ができたら…北へ行くんだ」
予言のような言葉が、未来予知からくるものだと既にローリエは気付いている。こくりとひとつ頷いて、了承の意を示した。
「…基礎だけでいいのか」
「色々な人を、色々なところから集めて教師にしたいんだ。ローリエをあんまり縛り付けておくと、未来に君が出会う人から怒られてしまいそうだし」
まるでそれすら楽しいものだと言うように彼は笑う。それしか知らないように、嗤う。




―――その後、その孤島はスカロフ魔法学園都市と名付けられ、
ローリエは予言の通りに北へ、北端都市ケルンへと足を運び、
そして分かつ二人は、別々の道を歩むこととなる。




End




3.主の御霊は我が中に




慈愛と慈悲、それから親愛。
それが課せられた私の罪で愛。
それが主の御霊の指令に同じ。
たとえ今、神などどこにも居られなくても。




「ウェイ、」
「巫」
呼びかけられる声、初めて感情を持てた声。
君が呼んでくれたから、私はここにいるのだ。そう、確信が持てるほどに。
「何やってるんだ、そんなところで」
「…あ、うん」
そうだった。彼にはこれが見えない。
天の御使い、我等天空と地とを結ぶ、カザハネ。手紙のようで手紙でない、ただ天からの一方通行な声を届けるだけのモノ。
ウンザリする様な毎度おなじみの言葉。還っておいで、という一言のみ。
慈愛だと慈悲だと謳っておきながらも、空虚だった私。そして天空の腐敗した世界。
だからこそ、今、この大地に降り立つ天使が多いのかもしれない。けれどそれを知らない天使のほうが圧倒的に多いのだけど。
「降りて来いよ、昼食にしよう。アーバインが良さ気なカフェ見つけたんだと」
「そうなんだ。うん、行くよ」
木の枝からそのまま地へと降り立つ。
「うわっ、馬鹿!」
羽を広げなくてもこれ位の高さからなら飛び降りれると自分で分かって降りたのに、巫は慌てて近寄ってくる。天使だって別に短い距離で羽を使ったりしないのに。
「羽があるんだからちゃんと使えよ!というかだな、普通に降りろ!」
「いや、こっちのほうが楽だし…ね?」
「言い訳無用。ほら行くぞ」
手をつかまれて、無理やりに引っ張られる。
傍から見たらこれは強引に見えるかもしれない。けれど、私にはとても嬉しいんだ。
巫が気にかけてくれる。そして巫も何だかんだいいながらいつもより足は遅い。これでも数年一緒に暮らしてきたから分かるんだよ。
私には分かる。
巫がいつも私を探して走ってきてくれること。
いつも私を見つけてくれること。




他でもない私が言うよ。神にいと近いといわれ続けてきた、私が。
神は天にいない。地にもいない。
我が心、我が御霊、我が半身にのみ居る。
私を慈悲の天使と奉る天空の天使には分からない。
永遠に。




End 4.捜し求めたる剣は既に我が手に



この剣があってもなくても、私は私で。
そして私は契約を絶った愚かな理者に過ぎない。
君はどう思う?…私を嗤うかい?
君と平穏にと願って、叶えられてしまった、私を。




実技授業の時間、今日の教師は…と。
中等部になんであの人が…?
「やぁ、巫くん」
「ヴィンセント、何で貴方が…というか今授業中です」
情報屋としては買っているし、頼ってもいるけれど一応ここは学校で、しかも授業中。部外者のこの人がいるなんて事態はないはずだ。たぶん。
あまりに情報通過ぎて不安になってきた。この人なら乱入くらいやりかねない。
「いや、ちょっとフェリーチェに頼まれてね。というわけで、諸君」
くるり、と各々戦闘用の武器をチェックしていたクラスメイトたちに向き直る。そうすれば自然とヴィンセント・ヴァルギスという一応一般人へと注目が走る。何人かはこの人が普段何をしているかを知っているようだった。…それはたぶん、吃驚するだろうなとは思う。
不測の事態には割りと慣れている俺でさえ、割と吃驚しているのだから。
「今回のみ実技授業を受け持つことになったヴィンセント・ヴァルギスだ。一般人だが魔術に関してはそこそこ自負があるので、簡単に倒してサボりにいけるとは思わないように」
笑顔付でも威圧感は健在。現在いつもならのほほんとしたカフェのマスターをしながら、情報屋をやっている人だとは思えないほど魔力の波動を感じる。
その手に媒体となるものはひとつもないのにも関わらず、だ。
「というわけで、授業とか私にはよく分からないし。とりあえず一人ずつ…じゃ、なくてもいいかな。何人かでまとめて掛かっておいで。その力量を見てから考えるよ」
イッツ・アバウト。
…それでいいのか、一応教師として来てるんだろう貴方は。
ため息を吐きながらも武具である魔鏡を手に他のクラスメイトと共に向かっていく。
残念ながら今日はウェイが自主休校を決め込んでいるから仕方なく、他のクラスメイトの後を追った。こんなときウェイがいれば幾分楽に終れるのになと、もうひとつため息を落とした。



その後、大よそ20分もなかっただろう。
ほとんどのクラスメイトが地に伏し、俺のように辛うじて踏みとどまりヴィンセントとの力量差を測っていた者はぐったりと壁に寄りかかって立っていた。
「流石につぇーな、あの人」
「…ああ」
疲労困憊といった風貌のアーバインと水を分け合う。自分も大差ないのは既に分かりきっている。あの人は化け物か。40人弱もいる魔術師と遣り合って無傷で疲れも見えないほどだ。媒体もなしに素手から発される魔力とそれから作り出した防護壁だけで立っている。
学生とはいえ一応魔術師がまったく歯が立たないなんて。
「…おい、ちょっと巫」
「ん?」
正直もう突っ伏して寝たい。あの人に挑もうなんて方が無理なんだ。と自虐的な思考に蹲り掛ける。こんなんじゃ駄目だと思うより先に、とっとと臥せて…、
「巫っ、ウェイが、ウェイが挑むぞ?!しかも一人で!」
「…は?」
ウェイは確か朝から調子が芳しくないから一日寝てるとか、そう言ってなかったか?だから今も学生寮にいるはずで、と。
そんなことを考えていながらも目は激しく動く二人の姿を捉えていた。
気功を用いて俊敏に体術を繰り出していくウェイ、そしてそれを紙一重で避けながら、そして避け切れなかったものだけを防護壁でいぶして行くヴィンセント。
「あの人に追いついてる…つーか、掠ってる?」
「ああ。微かだが、その部分だけ魔力でいなしてるな」
お互い素手だ。そしてその上に魔力を乗せるだけという魔術師としては異端なほど無防備。魔力を纏ったローブを着てるわけでもなく、いつもの格好で、目に追うのがやっとの体術と魔力の交差を繰り出している。
ウェイは、あんなだっただろうか…。
いつもそんな姿を、実技でも飄々としていて避けはするけれど自ら攻撃なんてする方じゃなかった。あんなに素早いだなんて知らなかった。



「流石、異世界の使者。私でもこれが上々といったところかな」
「おや謙遜を。私が掠り傷ほど付けられるとは…いやこの世界も捨てたものじゃないね。一応、理者は引退したんだが、流石に、ね」
ぶわりと音が反響するように魔力が開放されていく。それを一番近くに居るウェイが一番感じ取っていた。自然に距離をとるようになってしまう。
「…それが貴方の本来の力ですか」
防御を取りながら隙を見る。そうしながら聞いたはずの答えは、嗤いだった。
「いや…本当にこちらにきてから力が落ちてしまった。昔は星ほども落とせたというのにね」
荒唐無稽な話に聞こえるがヴィンセントは至極本気で、そして昔はそれが真実で普通だった。本気を出せば星さえも落とせる。それが自分だった。
平穏と引き換えに力の大半を失えども、簡単に倒されるほど力を落としては居ない。
「流石に君相手だとこれを出さなくてはならないようだよ。―――お出で、私の剣」
身のうちからあふれ出す魔力が形をとる。以前はそんなことなどできなかったが、この酷く魔力の安定した世界…特にこの学園内ではこうして容易に召喚じみたことさえできるようになってしまった。
そう自嘲する。嗤う、笑う。
膨張した魔力の波動がウェイの体を押し、そしてそれが静まるころには…ヴィンセントのてには剣が握られていた。
まるで宝剣のようなきらめきを纏った剣。人を切るためよりも儀式用に使われそうな剣の名を、残酷を司る祝福されし剣キュレル・エンド・オブ・ソードと言った。
彼が異世界からこちらへ来るときも手放さなかった、理者にとって片時も離す時のない魔具。
この登場には流石にウェイも大地で片手間に習得した気功術だけでは交わしきれず、攻勢にも出れないと踏んで、今まさに隠してきた力を放出しようとしていた―――の、だが。



甲高い鐘の音が響く。授業終了の合図だ。
音が鳴った瞬間、それまで張り詰めていた息や、空気が和らいでいく。
どうやら真剣勝負…むしろ生きるか死ぬかまで突き詰めそうになっていたヴィンセントとウェイの間に流れる空気もいつのまにやら緊張は緩和され、苦笑いのこぼれるものになっていた。
隣でアーバインが気忙しげに息を吐き続ける。無理もない。自分でさえ、息を詰め見守っていた。激しい魔力のうねりとあの二人の決着を。
もっともこれでよかったのかもしれない。たかが授業で真剣勝負など…
「…おい、ちょっと待て」
ぽつりと独り言のように呟いて、ずかずかとウェイのほうへと向かう。
そしておもむろにその首にあるネクタイを締め上げた。
「…え?ちょっと巫?」
「お前、今日は具合が悪いから自主休校、とか言ってなかったか?」
あ、と今思い出したかのようにウェイが空を見上げる。空に何があるかは分からなかったが、とりあえず病気でないのは確かだった。
「えーと…」
「しかも授業に乱入してきてヴィンセントと乱闘…というか死闘か。立派な授業妨害だぞ」
「あ、そうだね」
今の今まで忘れていたようだった。それほど本気になっていて周りが見えてなかったのか、こいつは。
そんな問答を続けている間にヴィンセントはさきほどまで片手に携えていた剣をどこかへ消し、こちらへ近づいてきていた。
「まぁまぁ巫くん。見取り稽古だと思えばいいじゃないか」
「……高度過ぎて見取り稽古にもなりませんでしたが」
あまりに凄過ぎて、いやその前に大半の生徒はヴィンセントにほどほどの力で返り討ちにされて伏していた。見ているものでも満身創痍。これで次の授業をまともに聞ける気がしない。
「ウェイくん、だっけ。久しぶりにとても楽しませてもらったよ」
「あ、ええと…それはどうも、ありがとうございます」
そうこうしているうちに隣では和やかに握手が交わされている。これでいいのか、という声も聞こえない。
これ以上はただの八つ当たりになりそうだったので、仕方なくウェイの首から手を離した。
「ウェイ、出れるなら次の授業行くぞ」
「あ、うん」
まだ熱気が抜けないのか、珍しく制服の襟を開きながら歩くウェイと廊下へと向かう。
「ウェイくん」
けれど背からヴィンセントの声が、ウェイの足を止めた。
「…次は続きをね。剣を用いた私とまた遊んでくれるかな、白炎の君セラフィム・アン
セラフィム…?その呼称は、
「はい。次は私も是非、誰も居ないところでお相手願いたいところです。理者の方よ」
少しだけ背を見てから、ウェイがとても透明な目をして笑った。
それからはいつもと変わらず、いつもどおり授業を受けて夕食を食べて就寝のはず。…はずなんだ。
ただ、頭からウェイの綺麗な目がまるで白い炎のように透明な風で、笑う。あの姿を忘れられない。




「…ここへ来て、この剣を手に戦う日がくるとは思わなかったよ」
「そんなに強かったの?ヴィンセント」
娘と語らうのにも昔は手を話さなかった、この剣。
今はめったに手にしない。カフェのマスターには不釣合いすぎるから。
「そうだね、次はお互い本気でやってみたいものだ。もしかするとファルなど10分持てばいいかもしれないね」
「…が、頑張る」
頑張らなくても、いいのだけれど。
この平穏な場所ならば、普通に生きられる。普通の女の子として。そして私も…、
「剣は既にこの手の内に、でもきっと彼は本気を出してくれないだろうね。次も」
「そうなの?」
推測だが、たぶん当たるだろう。神にいと近き彼はきっと彼の真たる力を使ってこない。今日、気功術のみで戦ったように。
「…だけれど、そうだね。今度ファルが会いたいなら、カフェに招こうか」
そんな物騒な日も、こんな平穏な日々のスパイス程度ならば、楽しいと思えるようになったのだよ。ファル。




End 5.禁じられたいにしへの術



誰も彼を止めることなどできない。
私も彼女も、そして“彼”も。
誰も止められないのなら、私はついて行こう。
彼が迷って立ち止まって、そして挫けそうになったとき。
誰も傍にはいられないから。
せめて、近くにいよう。
それが何もできなかった私の、“彼”への弔い。




砂礫の山が幾万も積み上がった、遺跡と呼ばれる場所。
そして全てが根ざし、全てが通る場所。
―――ここはユグドラシルの茎と呼ばれる大地で唯一の大動脈の様な通り道。
その場所に私と彼は立っていた。泣きはらした目をまっすぐこちらに向けて、彼は私を見ていた。
「…いいの、本当に」
私よりも頭一つ半も小さい彼が見上げてくる。痛ましいその眼、散り散りになったようなその心。私は君が一番辛かった時に何もできなかった。
だから、力を欲するのは君のためじゃない。私のためだ。
「構わない」
了承の意を示せば、彼は両手を広げ宣言の体制を取った。
眼は冷たい。まるで無機質。
ユグドラシルの管理者ドライバの力を使っているとき、彼はユグドラシルと一体となっている。だから何も見えない、見えるわけがない。セカイの半分とどうかしているからこその、その無機質さ。
「セカイより深淵を覗く黒の管理者ドライバの権限付与を、エステル・ヴァイヤーズの名を以て宣言しよう」
宣言全てを終えたエステルから紫色の光がほとばしる。そしてそれは夜空に舞いあがったかと思うと、私のところへと垂直に降りてきた。
躰が浸食されていくような感覚。けれど、白のユグドラシルと無理な契約を交わした時の白焔に焼かれるような苛烈さはない。
ただ夜陰のような静けさと…言葉通りの深淵。
それだけが身の内に滞る感覚があった。
「…ボクと来る、って訳でもないんでしょう?」
宣言を終えて、目がいつもどおりに戻ったエステルは私に言った。
「そうだな、とりあえずはついて行こう。だが、気分次第だな」
禁じられた力を二つも無理に身に宿し、世界を超える。どれほど体に負担がかかるかも分からないからこそ、無理について行くことはしない。
それを分かっているのか、エステルは少し笑って「そっか」と言ったきり、背を向けた。
「さっきの宣言、さ。ボクも初めてやったし、君は白の方まで持ってる。だからどんな相互作用があるのか、どんな力を有するのかボクにも分からない」
「…ああ」
歴代においても両方の力を有する者はいなかったという。エステルがユグドラシルからのアクセスで手に入れた情報だから、恐らくは正しい。
だからこそ、私が非常に稀有でそして危うい存在であることは、エステルも良く分かっているのだ。
ユグドラシル・ドライバではない私が白と黒を躰の中で交じらせているのだから、そこにはセカイと混沌が同時に存在するのと同じこと。
「分かっている。だから共には行かない」
「…うん」
「だが、顔位は見に行こう。お前の泣きそうな顔を見に行けるのは私だけだろう?」
誰一人、仲間はいない。そんな間柄だからこそ、
「うん…ありがと」
管理者ドライバの力で繋がれている私は、今やエステルを捜すことほど容易いことはない。力の源を辿れば良いのだから。だから、いつでも行く。行けるから…だから。
「お前はお前の為す事を為せ―――幸せを捜しに行くんだろう」
お前が“彼”を幸せにするために、お前の求む幸せのために往くのだから。
「……」


それっきり、エステルは遠ざかって行き、終いには視界から消えた。
そして私も、その場からは立ち去った。
それでいい。
また他の世界で会うだろう。いづれは。
それまで、もう少し心を立て直しておくといい。
彼女に寄り掛かってもいい。彼女ならきっと微笑とともに胸の内へ迎え入れてくれるだろう。
今となっては彼女だけがエステル寄る辺なのだから。今は。
そうしてまた、ニヒルでも苦笑でも良い。
次に会う時はどうか、笑って。




End